テロワール②は、潜在的存在だった畑の性質・環境のことだ。ワインとして顕在化してはじめて発見された、その畑ならではの潜在性。不思議な話だ。
テロワール②を理解するための鍵
テロワール②を説明するために欠かせない、1つの引用を読んでみたい。これが例の、自宅で本棚の整理をしていたときに偶然みつけた、いわば鍵だ。
三 リヒテンベルクは、純白を見たことがある人はごくわずかしかいない、と言っている。そうなると、「純白」という語を、たいていの人は誤って使っていることになるのか?当のリヒテンベルクは、その語の正しい使い方をどのようにして学んだのであろうか?
—–彼はその語の通常の使い方から理想的な使い方を構成したのである。そしてこれは、彼がよりすぐれた使い方を構成したという意味ではなく、ある方向で純化された使い方を構成したという意味なのであり、ここではなにかが極限にまで押しすすめられているのである。
ルードウィヒ・ウィトゲンシュタイン『色彩について』新書館 1997 13頁
「純白」を「テロワール」に置き換えて、こんな文を作ってみた。
モレ・サン・ドニに住む、食いしん坊な猫ジョルジュはこう言いました。
『はっきり言うけどにゃ、テロワールを実際に見たことがある人は いないにゃ』
え??ってことは、「テロワール」ということばを、みんな間違った意味で使ってるの?しかも実際に見たことないのにさ、ジョルジュは「テロワール」ってことばの正しい使い方をどうやって学んだの?
・・・そうか!ジョルジュは普段の使い方のテロワールの意味から、純化された使い方を思いついたのか!その時、なにかが極限にまで押しすすめられたから、このテロワールの意味の中に混じりけがないんだ。
やっと納得いったのはこういうことだ。テロワール②は、テロワール①をもとに概念的になにかが極限にまで押しすすめられ、純化した意味のテロワールなのだ。
では、なにが極限にまで押しすすめられているんだろう
よくよく考えてみると、わたしたちが②の意味でテロワールと言うとき、大袈裟に言えば「ぶどう樹さえまだない手つかずの状態のその場所・環境」をイメージしているのではないか。
ピノ・ノワールが植えられ、仕立てられ、ぶどうを恵んでくれて、収穫・醸造・熟成を経てワインになり、それを味わってはじめてわかる、その畑の独自性というものがある。隣の区画とのあきらかな違いだ。
その畑の潜在的な個性が、ワインの外観香り味わいとして顕在化される。
テロワール②は、顕在化された独自性のおおもとである、潜在的存在だった畑の性質・環境のことだ。ワインになってはじめて発見された、その畑の潜在性。不思議な話だ。
ブルゴーニュ・ワイン文化の骨格を成す概念、テロワール②
「純白を見たことがある人がわずかしかいない=本物の純白は原理的に知覚しえない」のと同じように、このテロワール②も完全に概念の世界のことばだろう。
でも、それがブルゴーニュ・ワインの文化の骨格をつくっている。
たとえばブルゴーニュの人々が、「ピノ・ノワールのワインを作ってる」という言い回しをしないのも、この概念的な潜在性のテロワールを常に意識しているからだと言える。
つまり、ピノ・ノワールを植えているのは、その畑のテロワール②をワインとして表現するため。それぞれの畑の独自性の機微を、より美しく表現してくれるのがピノ・ノワールだったにすぎない。
その相性の発見と、他の品種を排除した決断が、ブルゴーニュ人である彼らのぶどう畑観の1つの原点になっている。
ぶどう畑で働く職人が、畑でくたくたになるまで働き、「まったくもって自分ってばテロワールの僕(しもべ)だわ」と笑うとき、彼が使うテロワールは、まぎれもなく②であり、
そして、その台詞が自然にでてくる彼の精神や精工な仕事をひっくるめて、全体がその畑のワインのテロワール①である。